序章:アッカドの滅亡と混乱の時代
アッカド帝国が紀元前2154年頃に滅びた後、メソポタミアは混乱の時代に突入した。かつてアッカドの覇権に従っていたシュメールの都市国家は独立を取り戻したが、それは安定を意味しなかった。新たな脅威として台頭したのがザグロス山脈の遊牧民、グティ人である。彼らはアッカドの崩壊に乗じてメソポタミアを席巻し、シュメールの都市国家を支配下に置いた。
しかし、グティ人の統治は短命であり、決して盤石なものではなかった。彼らは高度な都市文明の運営に不慣れであり、メソポタミアの人々にとっては異質な支配者だった。次第にシュメールの諸都市は反抗を強め、ウルクの王ウツヘンガルがグティ人を撃退することに成功する。そして、その後を継いだのが、ウルの王ウル・ナンムであった。
ウル・ナンムの登場と王朝の創始(紀元前2112年頃)
ウル・ナンムは、シュメール復興の旗手として立ち上がった。彼はグティ人の残存勢力を駆逐し、ウルを中心とした新たな王朝を打ち立てた。これがウル第三王朝である。ウル・ナンムは、アッカド帝国の中央集権的な統治システムを踏襲しながらも、シュメールの伝統文化を復活させ、メソポタミアに新たな秩序をもたらした。
彼の最大の功績の一つは、**「ウル・ナンム法典」**の制定である。これは現存する最古の成文法典の一つであり、後のハンムラビ法典にも影響を与えたと考えられている。この法典には、刑罰や財産権の規定が含まれ、王の権威のもとに法の支配を確立しようとする意図が見て取れる。
シュルギ王の時代:黄金期の到来(紀元前2094年~2047年頃)
ウル・ナンムの跡を継いだシュルギ王は、ウル第三王朝の絶頂期を築いた。彼は強力な軍事力を維持し、交易を発展させることで国家を繁栄させた。シュルギ王の治世では、次のような改革が行われた。
- 中央集権体制の強化:
- 全国に行政官を配置し、細かな統治を行った。
- 道路や運河を整備し、物資の流通を円滑にした。
- 宗教の統制:
- 自らを「神格化」し、シュメールの信仰と王権を結びつけた。
- 各地の神殿を整備し、国家の統合を図った。
- 軍事力の増強:
- 周辺諸国に対して遠征を行い、勢力圏を拡大。
- 国境地帯には防壁を築き、異民族の侵入を防いだ。
シュルギ王は自らを神の化身とし、都市や神殿の建設を積極的に行った。ウルには壮大なジッグラト(階段状の神殿)が築かれ、シュメール文化の集大成ともいえる時代が到来した。
ウル第三王朝の衰退と滅亡(紀元前2004年)
シュルギ王の死後、ウル第三王朝は次第に衰退へと向かう。その主な要因は、以下の点にあった。
- アムル人の流入
- 西方から遊牧民アムル人がメソポタミアに流入し、国家の安定が揺らぐ。
- 彼らは傭兵や移住者として各地に定住し、次第に政治的な影響力を強めた。
- エラム人の侵攻
- 東方のエラム人が勢力を増し、ウルを脅かすようになる。
- 紀元前2004年、エラム軍がウルを攻撃し、ウル第三王朝は崩壊した。
- 経済的な負担
- 広大な領土を維持するための軍事費や公共事業の負担が増加。
- 財政難が進行し、国家の弱体化を招いた。
ウル第三王朝の最後の王、イビ・シンはエラム軍によって捕らえられ、王朝は終焉を迎えた。これにより、シュメール人による最後の王朝は姿を消し、メソポタミアの覇権はセム系民族(アムル人、バビロニア人)へと移っていくことになる。
ウル第三王朝の遺産とその意義
ウル第三王朝は短命に終わったものの、その遺産は後世に大きな影響を与えた。
- シュメール文化の最後の黄金期:
- 文学、宗教、建築などが最高潮に達した。
- ウルのジッグラトはその象徴。
- 行政制度の整備:
- アッカド帝国の制度を踏襲しつつ、シュメール的な官僚制を確立。
- これが後のバビロニア帝国に継承される。
- 法典の影響:
- ウル・ナンム法典は、後のハンムラビ法典に影響を与えた。
結論:都市国家の終焉とシュメール文明の継承
ウル第三王朝の崩壊は、シュメール文明の終焉を意味した。しかし、その文化は消えることなく、バビロニア人やアッシリア人へと受け継がれていった。シュメール語は話し言葉としては消えたものの、宗教や学問の場では長く使用され、メソポタミア文化の根幹を形成し続けた。
この王朝は、シュメール人の誇りと伝統の最後の輝きであり、中央集権国家の新たな時代へと橋渡しをする役割を果たしたのである。