欧州各国で現在、深刻な物価高と生活苦を背景とした抗議活動が激化している。フランス、ドイツ、イタリアをはじめ、ポルトガル、スペイン、ベルギー、アルバニアに至るまで多くの市民が街頭に繰り出し、その社会不安を追い風としていわゆる極右政党が急速に支持を拡大している。
主流派のメディアや識者は、この現象を前にして排外主義の蔓延やポピュリズムの台頭といった言葉で危機感を煽る。しかし、そこで起きている事態の本質を、単なる一時的なインフレや大衆の不寛容さに求めるのは根本的な誤りである。この混乱の根底には、長年にわたる移民政策がもたらした外部不経済の蓄積と、GDPという経済指標が抱える構造的な欠陥、さらには近代社会が推し進めてきた理念と物理的・生物学的現実との決定的な衝突が存在している。
移民政策という外部不経済と、排外主義というレッテルの欺瞞
これまで欧州が推進してきた移民政策は、経済学的な観点から見れば利益の内部化とコストの外部化そのものであった。安価な労働力を国外から大量に導入すれば、見かけ上のサービス価格や物価は抑えられ、頭数の増加に伴って消費と生産の総量が増えるため、統計上の名目GDPは拡大する。経営者や都市の上流層は、安価な労働力と市場の拡大という恩恵を確実に享受してきた。
しかし、GDPや消費者物価指数には反映されない領域で、膨大な社会的コストが発生していた。それは本来であれば労働需給の逼迫を通じて実現していたはずの現場労働者の賃金上昇の抑制であり、生活習慣や文化の違いから生じる地域社会の軋轢であり、郊外の学校や公営住宅、医療といった公共インフラの深刻な逼迫である。
この構造が社会分断を決定的にしたのは、恩恵を受ける層と不利益を被る層が空間的にも階層的にも完全に隔離されていた点にある。治安の良い高級住宅街に暮らし、子どもを私立学校に通わせるエリート層は、多様性や寛容という理念を無傷で唱えることができる。一方で、安価な住宅地や地方で暮らす一般庶民は、賃金が抑えられたままインフラの荒廃や摩擦の矢面に直接立たされてきた。そこへエネルギー危機と激しいインフレが直撃し、生活を維持するための最後の余力が奪われたことで、蓄積していた不満が一気に噴出したのである。
それにもかかわらず、人々の苦境を直視せず、排外主義が蔓延しているという道徳論で批判するのは現実の否認にほかならない。日々の生活苦と摩擦に喘ぐ人々を差別者として切り捨てれば、自らの痛みを代弁してくれる唯一の選択肢として極右とされる政党が支持を伸ばし、やがて政権を奪取するに至るのは必然的な帰結である。
閉じた系における人口増加と環境収容力の限界
貨幣というフィルターを通すと見えにくくなるが、そもそも人を増やせば社会が豊かになるという命題は無条件には成り立たない。人口増加が1人あたりの豊かさに直結するのは、未開拓の資源やフロンティアが豊富に眠っており、労働力を投入すればするほどそれ以上のリソースを掘り起こせる発展段階においてのみである。
すでにインフラや土地が飽和した先進国という閉じた系において、社会全体の実物リソース総量を $R$ 、人口を $N$ としたとき、1人あたりに割り当てられるリソース $r$ は次の単純な関係に支配される。
$$r = \frac{R}{N}$$
人を増やして社会を豊かにするためには、分母である $N$ の増加率以上に、分子である全体のリソース $R$ (住宅、エネルギー、交通網、医療、教育インフラなど)を拡張し続けなければならない。自然界の動物の世界では、環境収容力(キャリング・キャパシティ)の限界に近づけば個体数の増加は抑制的になる。なぜなら、閉じた系で個体数だけが増えれば1個体あたりの取り分が減り、群れ全体が共倒れになるからだ。
現代の欧州において、人口を増やす見返りとして全体のリソース $R$ をそれ以上に増やせていたのかと問われれば、答えは明白に否である。基礎インフラやエネルギー供給を急拡大させることなど物理的に不可能であるにもかかわらず、安価な労働力として人だけを増やし続けた結果、1人あたりのインフラと資本が希釈化された。限られた住宅やエネルギーを多くの人間で奪い合えば、価格が暴騰するのは当然の物理的帰結である。現在欧州を襲っているインフレと生活苦は、環境収容力を無視した人口拡大政策に対する実体経済からの回答と言える。
GDPという指標の狂気と、文化資本を切り崩すチキンレース
こうした各国の実態に目を向けると、日本国内で繰り返されるGDPをめぐる悲観論がいかに奇妙なものかが浮かび上がってくる。日本は名目GDPでドイツに抜かれ、さらにイギリスにも抜かれる見込みだと報じられ、一人あたりGDPでも世界40位前後に沈んだと嘆かれている。しかし、GDP上位のアメリカ、中国、ドイツ、インド、そしてイギリスを見渡したとき、あるいは一人あたりGDPで日本より上位にいる40カ国を並べたとき、その生活実態を羨ましいと感じる日本人はほとんどいないだろう。
とりわけ現在のイギリスは、国民保健サービス(NHS)の機能不全によって手術や診察に長期間の待機が常態化し、民営化された水道事業は設備投資を怠って河川に未処理の下水を垂れ流し、エネルギー高騰によって冬場に暖房か食事かの選択を迫られる世帯が続出している。EU諸国から見ても到底羨望の的とは言えないそのイギリスにGDPで抜かれるという事実は、GDPという指標がもはや国民の生活実態とまったく連動していないことを示している。
なぜこのような逆転現象が起きるのか。それはGDPが国民の幸福や豊かさを測る指標ではなく、単に市場で動いた請求書の総額を合算したものに過ぎないからだ。一般的な支出アプローチによるGDP( $Y$ )は、民間消費 $C$ 、投資 $I$ 、政府支出 $G$ 、純輸出 $(X - M)$ の和として定義される。
$$Y = C + I + G + (X - M)$$
この数式の致命的な欠陥は、消費 $C$ や投資 $I$ の中身が「人間を幸せにする支出」なのか、それとも「社会の破綻から身を守るためのやむを得ない支出」なのかを一切区別しない点にある。
- 治安が悪化し、市民が自衛のために防犯設備や民間警備に高額な費用を払うほどGDPは増える。
- 公教育や公的医療が崩壊し、生き残るために高額な私立学校や民間医療保険に加入せざるを得なくなるほどGDPは増える。
- 住宅不足と投機によって家賃が吊り上げられ、同じ狭さの部屋に住むために倍の家賃を払わされるほどGDPは増える。
本来、何をGDPから除外するかを細かく定めようとすれば、その基準を決める人間に強烈な統制権力が集中し、各国で基準がバラバラになって国際比較もできなくなるため、市場取引の単純合算にせざるを得なかったという理屈は理解できる。しかしその結果として起きているのは、本来なら無償で享受できていた治安、信頼、家族や地域の互助といった文化資本や社会関係資本をどれだけ経済資本に切り崩したかのランキングである。
この構造の狂気を極限まで推し進めれば、次のような思考実験が成り立つ。もしある国が「子育て禁止法」を制定し、親が自分の子どもを育てることを全面的に禁止して、必ず他人のシッターを有償で雇わなければならないと定めたらどうなるか。
【従来の社会(無償のケアと互助)】
親A ──(無償の愛情・育児)──> 子どもA
親B ──(無償の愛情・育児)──> 子どもB
※ 市場取引は発生しないため、育児に関するGDP計上額 = 0円
【子育て禁止法が施行された社会(強制的な市場化)】
親A ──(シッター代30万円を支払う)──> 親B(子どもAを保育)
親B ──(シッター代30万円を支払う)──> 親A(子どもBを保育)
※ 双方の支払いが市場取引となり、年間720万円のGDPが新規創出される
かつて経済学者のアーサー・ピグーが指摘したパラドックスの裏返しとして、お互いの子どもを交換し合って子育てにカネを払い合えば、何もないところから天文学的なGDPが生まれ、その国の経済成長率は爆発的に跳ね上がる。しかし、親子の愛着は引き裂かれ、稼いだ給料はすべてシッター代と仲介手数料に消え、国民は全員不幸のどん底に叩き落とされる。誰もそんな狂気の国に生まれたいとは思わないはずだが、現代の先進国が成長の名の下に進めてきた家庭や共同体の市場化は、本質的にこの思考実験と同じ構造を辿っているのである。
理念の合成が突き当たる生物学的限界
個別に見れば反論しづらい近代の理想も、複数を組み合わせたときに物理的・生物学的な現実と激しい矛盾を引き起こす。その最も深刻な例が、教育の高度化と女性のキャリア推進、そして人間の生物学的制約の衝突である。
高学歴化が進み、大学院の修士課程を終えて社会に出る時点で24歳から25歳になることが珍しくなくなった。そこから職場で訓練を積み、キャリアにおいてようやく一人前になる頃には30歳を迎える。現代のキャリア構造においては、30代こそがまさに実務の中核を担う本番の時期となる。
しかし、人間がどれだけ社会制度や教育カリキュラムを高度化させようとも、ホモ・サピエンスという生物の妊娠可能な年齢や妊孕性のピークが引き上げられたわけではない。25歳まで学生として過ごし、30歳でようやく仕事が軌道に乗るというタイムスケジュールを社会の標準に設定した瞬間、キャリア形成の最重要期と生物学的な生殖適齢期が正面からバッティングし、妊娠と出産がキャリア上の猛烈な不利として作用するようになる。
この生物学的非対称性を、制度上のルール操作だけで完全に公平化しようとすれば、たちまち不条理な袋叩きに陥る。妊娠・出産によるキャリア中断の不利を相殺するために、妊娠しない男性全員に数年の懲役を課せばよいのだろうか。あるいは、結果的に妊娠せずに閉経を迎えた女性には、公平を期すために数年の福祉奉仕活動を義務づければよいのだろうか。いずれも現実的ではないし、仮にそのような強権的措置をとったところで、全員の足を引っ張り合うだけであり、25歳まで学業に費やし30歳からキャリアの本番を迎える構造における生物学的な不利そのものが消えてなくなるわけではない。
結局のところ、生殖の負担を負わない個体を基準に設計されたキャリア競争に全員を組み込めば、個人にとって最も合理的な生存戦略は「子どもを持たないこと」になる。個別の善意や理想を積み重ねた結果、社会全体としては自らの再生産にペナルティを課し、緩やかに人口縮小と消滅へ向かうシステムが完成してしまっている。
数字の呪縛から実体的な生活基盤の擁護へ
欧州の街頭で燃え上がる抗議の炎も、GDPランキングを前にした日本の奇妙な違和感も、そして先進国に共通する少子化の袋小路も、すべては同じ根から生じている。それは、市場で動く貨幣の量や、頭の中で作られた抽象的な制度理念を優先するあまり、人間が生きるための物理的な環境収容力や生物学的な時間制約、そして数字には表れない文化資本の価値を軽視してきたことの結果である。
無駄な防衛的支出や文化資本の切り売りによって膨らんだGDPを羨む必要はない。求められるのは、見せかけの経済指標や観念的なスローガンに合わせて人間の側を無理やり作り変えることではなく、物理的・生物学的な現実の制約を直視し、人々が平穏に暮らし次世代を育むことができる実体的な社会の土台を守り抜くことである。
