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イデオロギー・ショッピングの時代:効果的利己主義者たちの看板付け替え術

現代社会を席巻する「なんとかイズム」の正体を見抜く時が来た。テックリバタリアニズム、効果的利他主義、そして各種の選択的多様性論——これらはすべて同じ構造を持つ偽装工作である。

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テックリバタリアンという名の矛盾した生き物

テックリバタリアンと呼ばれる人々の主張を聞いていると、あまりの論理的矛盾に頭痛がしてくる。彼らは政府の規制を嫌悪し、自由市場を神聖視する一方で、暗号化技術やプライバシー保護の重要性を声高に叫ぶ。だが待てよ、と考えてみればよい。真の自由主義者であれば、暗号化で詐欺師が匿名取引をしようが、それも「自由の代償」として受け入れるべきではないか。

ところが彼らは格差については冷酷なまでにドライである。ホームレスを「選択の結果」と嘯き、政府の介入を拒否する。では、なぜ同じ論理を暗号化の悪用に適用しないのか。なぜテロリストや犯罪者の「選択の結果」を、格差で苦しむ人々と同じように突き放せないのか。

答えは単純だ。彼らは真のリバタリアンではない。自分たちの都合のいい「自由」だけを選択する、偽装された既得権益保護主義者に過ぎない。イーロン・マスクがTwitterで展開した言論統制を見れば一目瞭然である。「言論の自由の砦」と豪語しながら、気に入らないアカウントを個人的理由で制限し、自分を批判する投稿には露骨に冷淡な態度を取る。女子中学生がワンピースを着た絵を描いた漫画家がシャドウバンされる世界で、一体何が「自由」なのか。

効果的利己主義という本質

サム・バンクマン・フリードの逮捕により、効果的利他主義という看板の欺瞞性も白日の下にさらされた。彼は「最も効率的に世界を救う」と称して巨額の資金を集めながら、実際には顧客の金で豪遊していた。これはもはや効果的利他主義ではなく、効果的利己主義と呼ぶべきものである。

興味深いことに、テックリバタリアンも効果的利他主義も、そして現代のリベラルも保守も、すべて同じ構造的欠陥を抱えている。それは「選択的適用」という病理である。リベラルの多様性は、彼らが認めた多様性のみが保護される選択的多様性であり、テックリバタリアンの自由主義は、自分たちに都合のいい自由のみが神聖視される選択的自由主義である。

トランプのMAGA運動も例外ではない。「アメリカファースト」と「自由市場経済」を標榜しながら、関税という計画経済的手法で他国から収奪を行い、TSMCにIntelの株式取得を強要する。これは社会主義そのものではないか。日本から80兆円の投資を強要し、その90%がアメリカの利益になると堂々と宣言する姿は、21世紀版の植民地支配に他ならない。

無意味な仕事の椅子取りゲーム

現代社会の病理は経済構造にも及んでいる。高給を取る仕事の多くが本質的に無意味である一方、社会の根幹を支える食料生産や製造業は軽視されている。コンテンツモデレーションやESG報告書の作成、複雑な金融商品の設計——これらは確かに「高度」だが、社会に実質的価値を生まない。むしろ問題を複雑化させるだけの存在である。

一方で、農業従事者や製造業のライン作業員、物流業界の労働者たちがいなくなれば、社会は即座に麻痺する。だが彼らは「ダサい」「底辺」として扱われ、低賃金に甘んじている。収入と社会的地位が、実質的価値と完全に反比例している異常事態である。

無意味な高給取りたちは「教育の高度化とリスキリング」で底辺を救えと嘯く。だが全員がデータサイエンティストになったとして、誰が食料を作るのか。これは本質的に椅子取りゲームであり、椅子の総数は限られている。日本や台湾から収奪した80兆円でMAGAパレードを開催したところで、アメリカの製造業の競争力が回復するわけではない。

地位というゼロサムゲーム

なぜ実質的価値を生む仕事の地位向上が実現しないのか。答えは社会的地位がゼロサムゲームだからである。農業や製造業の地位が上がれば、現在の高給取りの相対的地位は下がる。効果的利己主義者にとって、それは受け入れ難い現実である。

彼らは「みんなで向上しましょう」と美しい言葉を並べながら、実際は自分の優位性を維持することしか考えていない。だからこそ「教育で底辺を引き上げる」という幻想を振りまく一方で、本当に必要な仕事の地位向上は絶対に提案しない。それは自分たちのヒエラルキー上の位置を脅かすからである。

個人の選択という最後の砦

システム全体の矛盾を理解することは重要だが、それを変えようとするのは徒労に終わる。テックリバタリアンも効果的利他主義も、新たに現れるであろう「革新的な」イズムも、結局は同じ構造を繰り返すだけである。椅子取りゲームは続き、無意味な仕事は増え続け、本当に必要な労働は軽視されたまま放置される。

だからこそ残されるのは、この現実を前提として自分なりの生き方を見つけることだけである。流行りの理念に振り回されず、「効果的利己主義者」たちの看板付け替え術に騙されず、小さな個人の選択に集中する。それが現代を生きる最も現実的で健全な態度なのかもしれない。

大きな変革の夢よりも、確実に自分がコントロールできる範囲での選択。イデオロギー・ショッピングの時代において、それこそが真の自由と呼べるものなのである。

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