社会が発熱している
いまの社会は、どこを見ても「正しさ」に熱を上げている。犬の狂犬病ワクチンをめぐる議論ひとつ取ってもそうだ。年四千円の接種費を払わずに犬を飼っている者がいると聞けば、即座に「資格がない」「法律違反だ」「無知は罪だ」と糾弾の声が飛ぶ。
しかし冷静に考えれば、年四千円という額は、飼い犬の餌代にも及ばぬ。払えないというより、払わない理由を探しているに過ぎない。ここで必要なのは「それは飼い主の責任です。払ってください」で終わる話である。
ところが現実には、この単純な線を引けず、誰もが正義を競い合う。医師も一般人も、知らない誰かを叩き、社会全体が発熱している。これはもはや公衆衛生ではなく、心理的感染症である。
「正義病」という自己免疫の暴走
正義病――それは、他人の間違いを見つけることで自分を守ろうとする反射である。余裕のない社会では、人は「自分が正しい側」に立っていなければ不安になる。だから、わずかな不正や怠慢を見つけると、すぐさま攻撃に転じる。
SNSはこの免疫反応を無限増幅する装置だ。狂犬病の話題ですら、論点はすぐに「倫理」「資格」「人間性」へ飛び火する。
正義病の本質は、他者の誤りを正すことではなく、自分の正しさを確認したい衝動である。だから、どれほど正論を振りかざしても、議論の温度だけが上がり、社会は疲弊する。
「資格がいる」と「資格などない」の両極
今回の件で浮き彫りになったのは、「命を預かるには資格がいる」という極と、「命に資格などない」という極である。どちらも言い切れば確かに筋は通るが、現実にはどちらにも違和感がある。
命を扱う行為に資格を求めすぎれば、人間の自由を削る。逆に資格を完全に否定すれば、無責任が横行する。
人は他の命と関わらずには生きられない。だからこそ、「命と共に在る自由」は誰にもあるべきだが、それは同時に他者の痛みと衝突する自由でもある。社会はその衝突を和らげるための工夫――制度、教育、支援――を積み上げるしかない。完璧な答えはなく、ただ「できる範囲で悲劇を減らす」努力が続くのみである。
正しさを奪い合う鏡の部屋
現代社会は「お前は正しくない」と言い合う鏡の部屋になっている。かつて正しさは上から降ってきた。宗教や国家が基準を示した。いまは誰もが自由に意見を述べられるが、自由は同時に闘争を生む。
誰もが批判される恐怖を抱えながら、先に他者を裁く。こうして社会は「正しいことをする場」ではなく「間違いを責め合う場」に変わった。
狂犬病ワクチンをめぐる騒動は、その縮図である。犬を守るためでも、人間を守るためでもなく、自分が正しい側にいたいという不安の解消劇が繰り返されている。
余裕のなさがすべてを尖らせる
なぜこんなにも人々が攻撃的になるのか。それは、余裕がないからである。経済的な余白、時間の余白、精神の余白――それらが削られた社会では、他人の誤りを許すことができなくなる。
「まあ仕方ない」「事情があるんだろう」そう言えるのは、心に隙間がある人間だけだ。今の社会には、その隙間がない。だから、四千円の問題が社会の倫理論争に発展する。
犬のワクチンより、人間の心にこそワクチンが必要だ。正しさを主張する前に、一拍置けるだけの余裕。その一拍が社会を保つ抗体になる。
今回の騒動は、犬やワクチンの話ではない。
「正しいことを言う自分」と「正しくなければならない社会」が噛み合わなくなっている、その歪みの露出である。
飼い主は責任を果たせばいい。制度はそれを支える仕組みを整えればいい。だが、それを超えて誰かが誰かを断罪し始めた瞬間に、社会は冷たく硬くなっていく。
正義にワクチンがあるなら、それは他人を責める前に一瞬だけ黙る勇気だ。
その沈黙こそ、いま最も欠けている「余裕」のかたちである。