ビクトリア朝における少年の身体監視と医学的ドグマ
19世紀のビクトリア朝英国では、少年の自慰や無駄な勃起を防ぐために物理的な拘束具や警戒ベル、針付きの装置などが考案され、大真面目に身体の監視が行われていました。現代から見ればグロテスク極まりないこの光景は、当時の最先端とされた医学的誤謬によって正当化されていました。
スイスの医師サミュエル・ティソが広めた「自慰病理説」に基づき、精液は生命力そのものであり、射精や無駄な性衝動は結核や脊髄癆、失明、発狂を引き起こす破滅の引き金であると本気で信じられていました。さらに産業革命下で台頭した中産階級の自制心信仰と結びつき、パブリックスクールなどの集団生活の場では、エリートを育てるための純潔教育として徹底的な身体管理が制度化されたのです。
草の根のリアリズムとエリートの教条主義
こうした監視社会のなかでも、すべての人が狂信的だったわけではありません。英国王室外科医ジェームズ・パジェットのように、恐怖で少年を脅迫することこそが精神を病ませると警告した医師もいました。また、家庭内では過剰な器具の導入を拒絶する親や、寮生活の監視網を冷笑しながらやり過ごす少年たちの現実的なサバイバルが存在していました。
ハヴロック・エリスが1897年に『性の心理』で口火を切り、続いてジークムント・フロイトが1900年代初頭に精神分析を通じて抑圧の構造を解き明かすに至った背景には、学会の反逆にあたる理論を支えた現場の臨床医たちの違和感や、名もなき生活者たちの草の根の積み重ねがありました。
インターネットの参加規範を示す経験則として知られる次の関係のように、言論空間で過激な主張を発信するのは常に全体のごく一部です。
$$90 : 9 : 1$$
全体の大部分を占める生活者層は、教条的なイデオロギーよりも日々の暮らしのリアリズムを生きています。理念を純化させて極端な規範へ暴走する言論エリートと、冷めた視線を持つ一般層の乖離は、いつの時代にも見られる普遍的な構図です。
現代に反復される「理解」の名の下の身体苦痛付与
過去の歴史を振り返る際、当時の人々が愚かだったからだと片付けるのは危険です。現代社会においても、「他者理解」や「社会のアップデート」という正義の看板のもとで、個人の身体に意図的な苦痛を与える施策が真顔で議論される事例が存在します。
代表的な例が、東京都の女性活躍推進をめぐる議論で浮上した「男性管理職に電気刺激装置を装着させ、生理痛を疑似体験させる研修」の推進や支援策です。他者の健康課題や苦しみを理解するという高尚な目的が掲げられているものの、その手段として「行政や組織が個人の身体に装置を取り付け、人工的に痛みを与える」という行為そのものの暴力性や異常性は、強い批判と波紋を呼びました。
性や生殖器、身体の痛みにまつわる領域は、今なお根強いタブーやセンシティブな性質を持ちます。だからこそ、「配慮や理解を促す」という大義名分が一度与えられると、生身の身体に対する直接的な負荷や苦痛付与という手段のグロテスクさにブレーキが利かなくなる危うさを孕んでいます。
憲法や法律の難解な条文を持ち出す以前の根本的な前提として、他者の身体や尊厳を物理的・精神的に直接攻撃・侵襲してはならないという素朴な常識が存在します。どれほど高尚な理念で飾り立てようとも、行われている行為が生身の人間に苦痛を強いるものであるならば、その時点でその論理は根本的な疑問に直面せざるを得ません。
正義や管理の旗印のもとで人間に対する侵害がいとも容易く正当化されてしまう歴史の教訓を忘れず、行為そのものの異常さに立ち返って物事を直視する視点が不可欠です。