我々はいつの間にか、目に見えぬ契約書に署名している。
「同意します」というボタンを押すその指先に、どれほどの自由が残されているだろうか。
Zenn、GitHub、X、YouTube——それらは名を変えた王国だ。領地を持たない代わりに、サーバを領土とし、アルゴリズムを法典とする。そこに生きる我々は「ユーザ」と呼ばれるが、実態は小作人に近い。土地を離れれば生計は立たず、収穫(=フォロワー)もまた、領主の気まぐれな政策に左右される。
プラットフォームはいつも言う。「私たちはあなたの創造を支援します」と。
だが、その裏には「あなたの創造は私たちの所有物です」という沈黙がある。
プライバシーポリシーの改訂は、王の勅令のように下る。
異議申し立ての余地はなく、ただ「読むか・去るか」だけが与えられる選択肢だ。
我々はそれを「自由」と呼んで自ら慰めているが、実際には、既にその自由を譲り渡している。
なぜなら、離脱すれば築いた評判、つながり、歴史がすべて失われるからだ。
データは持ち出せても、関係は持ち出せない。フォロワーという名の領民は、プラットフォームの柵の内側に留め置かれる。
この構造はまるで、封建制の再演である。
かつて貴族は血統によって地位を得た。今、プラットフォーム貴族は「成果」によってその正当性を得る。
血統が偶然に基づくように、成果もまた環境と運の産物だ。
アルゴリズムの光が一度当たれば、可視性は雪だるま式に膨らむ。
努力は必要条件に過ぎず、十分条件ではない。
そして気づけば、その「成果」さえもアルゴリズムが分配する。
努力が報われないことを「自分のせい」と思い込む文化は、見事にこの構造を支えている。
貴族制が「神意」によって正当化されたように、成果主義は「公平さ」の幻想によって正当化される。
だが本当の支配者は、神でも公平でもない。
それはデータセンターの奥で冷たく光る推薦エンジンだ。
かつて王が臣民の税を定めたように、今はアルゴリズムが視線の配分を定める。
我々は反抗もする。オープンソースを信じ、分散型を夢見る。
だが、気づけばGitHubのリポジトリに依存し、npmのエコシステムに縛られている。
自由を叫びながら、クラウドの檻の中でコードを書く。
皮肉なことに、最も自由を愛する者たちが、最も深く囲い込まれている。
それでも我々は書く。コードを、文章を、思想を。
なぜなら、それだけが抵抗の証だからだ。
「同意しない自由」が失われた世界で、言葉を紡ぐことこそ、最後に残された同意拒否の行為である。
プラットフォームの封建制を生き抜くとは、黙って従うことではない。
その構造を理解し、観察し、記述することだ。
支配のメカニズムを可視化する者だけが、支配を相対化できる。
我々はもはや完全に自由ではない。
だが、自由を観測する知性だけはまだ手放していない。