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技術の中立と人間の責任 ── ゴミの山の中で考える

技術は常に中立である。
善でも悪でもない。ただそこにあり、使う者の意図を淡々と反映する。だが、もしそれだけで済むなら、なぜこれほどまでに疲弊した社会の中で、技術者が責任の所在を問われるのか。なぜ多くの技術者が、自らの仕事に空虚さを感じているのか。

2025年、最高級の技術者たちは広告の最適化アルゴリズムを洗練させ、人間の注意を分割し、生成された虚像を拡散させる基盤を構築している。
それは技術的には正確だ。しかし、それが「正しい」と言えるだろうか。エネルギーや食料が不足し、社会の基礎が揺らぐ中で、私たちは膨大な電力を注いでディープフェイクを作り、空虚なデータの山を増やしている。この現実を前にして、技術の中立を信じることは、もはや無垢ではなく盲目である。

工学の歴史をたどれば、その起源の多くは軍事にある。制御・効率・勝利のために、技術は磨かれてきた。目的を問わず、ただ手段を極める訓練。それが「技術者」という存在の宿痾となった。
技術者は、目的を外部に委ねる存在として形成されてきた。だから、手を動かすことには長けていても、なぜそれを作るのかという問いに沈黙しがちだ。

しかし今、技術は社会のすべてに入り込み、人間の認知や関係の深層までを変えている。もはや「どう作るか」だけでは済まない。「何を作るべきか」「誰のために作るのか」が問われている。
それにも関わらず、私たちは再び手段を神とし、目的を市場に委ねている。資本は資本を評価し、増殖の速さだけが善とされ、リソースはアトムではなくビットに集まる。結果として、社会は歪み、技術者は自らの手でその歪みを支えている。

技術の進歩とは何か。
クラウド、サーバレス、AI。どれも確かに便利だ。しかし「便利」と「正しい」は同義ではない。
通信が24時間可能になった結果、私たちは常に働き、休息を失った。動画を無限に生成できるようになった結果、思考の余白を失った。AIが自動で要約を作るようになった結果、言葉を通じて他者と対話する機会を失いつつある。

技術が生まれたのは、秩序の維持や支配のためではなく、混沌の中から意味を掘り起こすためだったはずだ。
だが今や、デジタルの世界は「ゴミの山」になった。
情報は溢れているのに、必要なものがない。知識は遍在しているのに、理解は貧しい。AIがその山をさらに肥大化させながらも、同時にその中から価値を掘り出す道具であるという、このねじれた構造こそが現代の象徴だ。

AIは本来、ゴミ掃除のために生まれたのではないか。
膨大なノイズの中から、必要なものを見つけ出す補助線として。
しかし今、その掃除機の手を握っているのは、プラットフォーマーであり、彼らの目的は掃除ではなく、視界を操作することにある。
掃除機は動いているが、床はきれいにならない。
だからこそ、責任の主体を取り戻さなければならない。
AIを握る手は、僕自身でなければならない。

技術者とは、かつて世界を作る側の人間だった。
今は世界を維持する側にいる。
だが、それでもまだ遅くはない。技術を取り戻すことは、倫理を取り戻すことだ。
進歩という言葉を信じるのではなく、その中身を自ら問い直すことだ。

もし僕がカリフォルニアで三十万ドルの年収を得ていたなら、きっとこの過ちに気づけなかっただろう。
だが幸いにも、その特権から遠く離れた中間にいる。
富にも貧にも属さず、流れを外側から眺めるだけの余白がある。
この距離こそ、いまもっとも貴重なものだと思う。

僕らはゴミの中にいる。
だが、まだ掃除を始めることはできる。
それは技術への信仰ではなく、責任の再発見である。

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