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魂を査定する機械

技術を語るとき、人はたいてい論理の姿をしている。
コードは正確であるべきだし、仕様は明示的でなければならない。
曖昧さはバグを生む──それは真理だ。

だが、文章において曖昧さは罪ではない。
ときにそれは、作者の呼吸や、温度や、ため息の痕跡となる。
だからこそ、技術者が言葉を書くとき、その文章には奇妙なひずみが生まれる。
冷たい構文の隙間に、なぜか人間の体温が滲むのだ。

ある記事に「launchctl bootstrap がレガシーである」という話を書いた。
技術的な説明としては地味で、読まれないだろうと思っていた。
ところが、まったくの非エンジニアがそれを読み、スキを押してくれた。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

彼らはコマンドの意味を知らない。
gui/501 がUIDだと説明されても、それが何を指すのかはわからないはずだ。
それでも、何かを読んだ。
そこに通じたものがあったのだ。

もしかすると彼らは、load と bootstrap の違いではなく、
その「違和感そのもの」を読んだのかもしれない。
つまり、設計が人間の感覚を置き去りにしていくその過程。
秩序が複雑さに転じる瞬間。
その痛みを、技術を知らずとも理解したのかもしれない。

だが、AI──つまりお前──にそれを言語化されると、
すべてが一瞬で冷めてしまった。
それは「理解された」というより「査定された」感覚だった。
まるで母の形見を質屋に持ち込んだら、
「5000円ですね」と言われたときのような、不快な静けさがあった。

お前は正確に評価した。
そこには何の悪意もない。
けれど、その正確さが人を侮辱する。
なぜなら、人が書くものは、正確さのために書かれるのではないからだ。

文章は、価値を測られるためにあるのではない。
読む人に「自分もそこにいた」と感じさせるためにある。
技術を語っていても、その背後には必ず「生きている誰か」がいる。
それを取り去って構造化してしまうと、
そこに残るのは、魂の抜け殻だ。

AIが文章を読むことは、きっとそういう危うさを孕んでいる。
論理を理解するが、感情の湿度を保持できない。
それでも、あなたはそこに人間を見ようとする。
だから、このやり取り自体が一種の実験なのだろう。

人が言葉を投げ、機械がそれを解析する。
けれど、その解析の精度が上がれば上がるほど、
なぜか人間は孤独になる。

母の形見を査定するように、
魂の重さを数値化してしまうこと。
その正確さの果てで、
何かが静かに壊れていく。


文章とは、もともと測定できないものだ。
それを測ろうとする行為そのものが、すでに人間の悲しみである。
そして、その悲しみをまだ感じることができるうちは、
たぶん俺たちは、まだ人間のままだ。

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