国家というシステムにおいて、本来「失敗」は再起動へのトリガーであるはずだ。しかし、現代の国際秩序という巨大なフレームワークの中で、一部の国家は死ぬことも再生することも許されない「ゾンビ・サーバー」と化している。
一度システムが致命的なエラーを起こし、経済が実質的に停止しても、国際的な人道支援や国境の固定化という名の「延命措置」が働き続ける。本来なら、管理能力を失った時点でシステムは解体され、新たな管理者のもとで再構築されるのが歴史の自浄作用であった。しかし今、壊れた統治機構は外部からのリソースを吸い込みながら、ただ「存在し続けること」だけを目的化している。
このゾンビ状態を維持しているのは、皮肉にも現代社会が尊ぶ「安定」への執着である。
隣国や国際社会にとって、崩壊した国家を放置したり、あるいは強制的に介入してシステムを入れ替えたりするコストは、あまりにも高い。その結果、周辺諸国は「内部がどれほど腐敗していても、国境という枠組みさえ維持されていればいい」という妥協を選択する。管理者はこの妥協を逆手に取り、国民の困窮を人質にして外部からの支援を引き出し、それを自分たちの権力を維持するための燃料に充当する。
システムの内側では、絶望的な循環が繰り返されている。
通貨はその価値を失い、単なる数字の羅列へと退化する。教育を受けた優秀な人材は、壊れた環境でリソースを浪費するのを嫌い、次々と国外へと流出していく。残されたのは、再起動の意志を失った管理者と、その日暮らしを強いられる国民だけだ。もはやそこには、将来の発展に向けた投資も、社会をより良くしようという設計思想も存在しない。
さらに深刻なのは、このゾンビ化したシステムが、管理者にとって「最も都合の良い状態」として定着してしまうことだ。まともな国家運営には、国民への説明責任や、透明性の高い経済活動が必要となる。しかし、壊れかけのシステムであれば、不透明な利権の分配や、法の無視が常態化する。彼らにとって、システムを正常化することは、自分たちの特権を削除することと同義なのだ。
我々は、いつからか「国家が存続していること」と「国家が機能していること」を混同するようになった。看板だけを掲げ、中身が完全に腐敗したゾンビ・サーバーは、周囲の健全なシステムにも悪影響を及ぼし、地域全体のパフォーマンスを低下させる。
強制終了のない世界で、私たちはどうやって「死んだシステム」に引導を渡し、新しい息吹を吹き込むべきなのか。延命という名の放置が、最も残酷な選択肢であることに、我々はもっと自覚的であるべきだ。