国家という巨大なシステムの品質を決定付けるのは、管理者の善意ではない。そのシステムが置かれた「生存環境」の過酷さである。
かつてのヨーロッパ、特にプロイセンからドイツ帝国を築き上げたビスマルクの時代、国家運営はまさに命懸けの最適化を強行されていた。四方を強国に囲まれた環境において、システムの脆弱性は即座に国家の消滅を意味した。隣国という競合他社に飲み込まれないために、指導者は国民というリソースを最大限に活性化させる必要があったのだ。
国民が病に倒れれば兵力は削られ、産業が停滞すれば軍事技術のアップデートは止まる。だからこそ、彼らは世界に先駆けて社会保障制度を導入し、教育を標準化した。それは慈悲ではなく、国家というサーバーの稼働率を上げ、処理能力を極限まで高めるための、極めて冷徹な「生存のためのリファクタリング」であった。外圧という名の厳しい市場原理が、管理者に「国民を強くする」というコードを書くことを強制していたのである。
しかし、現代の失敗国家の多くには、この「健全な危機感」が欠落している。
ジンバブエの事例を見れば明らかだ。隣国である南アフリカなどにとって、崩壊しつつあるジンバブエはもはや脅威ではない。むしろ、安価な資源の供給源であり、自国の労働力不足を補う優秀な人材の流出元として、ある種「都合の良い隣人」として放置されている。国を滅ぼし、新たな統治を打ち立てるほどのリスクを負う隣国は存在しない。
この外圧の欠如が、管理者のモラルハザードを加速させる。
外部からの攻撃を恐れる必要がなくなったリーダーにとって、国民はもはや「育てるべき資産」ではなく、単に「絞り取るだけの消耗品」へと成り下がる。国民が健康になり、教育を受け、経済的な自立を果たすことは、自分たちの支配体制を揺るがすバグとして処理されるようになる。彼らにとっての最適解は、国民を弱らせ、依存させ、反抗する余力を奪うことだ。
かつて国家を強くした「生存競争」という名の淘汰圧は、現代の固定化された国境線の内側で、完全に消失してしまった。
皮肉なことに、平和と安定を保障する国際的な仕組みが、指導者から「国をまともに運営する」という最大の動機を奪ってしまったのである。外からの脅威がない世界では、内側からの腐敗を止める力は驚くほど脆い。
我々は、競争のない独占企業がサービスの質を落とすのを何度も目撃してきた。国家も同じだ。他国に取って代わられる恐怖というチェック機能が失われたとき、管理者は国民を守るためのコードを書き換えることをやめ、ただ自分たちの特権を永続させるためのスクリプトだけを回し続けるようになる。