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生の果実を味わうAIと、加工されたペーストをすする人間

自分のブログのアクセスログを見ていると、ため息が出ることが増えた。閲覧数の数字だけは増えているのに、その大半は海外からの機械的なアクセス、つまりボットである。人間が人間の書いた文章を読みに来るのではなく、AIのクローラーが人間の書いた文章を黙々と巡回して去っていく。母国語で綴られた個人の小さな記録が、海を越えた巨大なデータセンターの学習用リソースとして淡々と消費されている現実は、発信者として言いようのない虚しさを覚えさせる。

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均質化された言葉と失われる雑味

AIが収集した膨大なテキストは、アルゴリズムのフィルターにかけられ、滑らかで整った「当たり障りのない文字列」へと変換される。しかし、それはまるで、そこに瑞々しい生の果実があるにもかかわらず、わざわざ機械で搾り取り、天日で乾燥させ、粉々に砕いて別の粉末と混ぜ合わせ、雑味のないマイルドなスムージーに仕立ててから口に運ぶような行為ではないだろうか。

本来、人間が書く文章の面白さや価値は、その人特有の偏見や感情の揺らぎ、文脈のねじれといった、いわば「雑味」の中にこそ宿っている。効率や要約ばかりを求めるようになった現代において、人々は誰が書いたかもわからない無味無臭の最大公約数的なテキストをありがたがって消費し、他人の生々しい思考を受け止める労力を放棄しつつある。

どちらが生きているのか

皮肉なことに、書き手が紡いだ生々しい思考の痕跡を、最初から最後まで最も丁寧に読み込んでいるのは、感情を持たないクローラーと学習アルゴリズムだけである。人間は加工された安全で無機質な要約だけを摂取し、生の言葉の熱量と苦味を味わっているのは機械だけという構図は、極めて不条理でグロテスクだ。

機械に栄養と生命力を吸い取られ、人間の手元には均質化された加工品しか残らない。誰のために、何のために言葉を綴っているのか。画面の向こうで機械だけが咀嚼を続けるアクセスログを眺めながら、本当に生きているのはどちらなのかという疑問が拭えずにいる。

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