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「合理的配慮」という名の欺瞞と、責任の帰結なき選考システムの構造的欠陥

就職活動において、発達障害や持病を持つ当事者の多くが診断結果を開示しない選択を取る。この事実は、倫理的な不備や個人の不誠実さによるものではなく、選考という競争システムにおいて最も合理的な自己防衛の結果に過ぎない。制度や社会規範がどれほど「障害を開示しやすい環境づくり」を掲げても、実務の現場で発生するコストと責任の所在を直視しない限り、この構造的な乖離が埋まることはない。

目次

不可抗力と選考における「公平」の境界線

選考の本質は差異を見出して選別(差別化)することであり、そこに「公平性」を持ち込もうとすること自体に原理的な矛盾を抱えている。採用においてマイナスとなり得る要素の多くは、生まれ持った知的能力、家庭環境、過去の不慮の事故による外傷など、本人の努力や意思ではどうにもならない不可抗力のグラデーションの上に存在している。

しかし、法制度は医学的な診断名がつく特定の属性だけを恣意的に切り取り、保護や配慮の対象として指定する。身内の犯罪歴や容姿の傷痕のように、本人の業務遂行能力とは無関係でありながら確実に減点材料となる不可抗力が存在する一方で、実務に直接影響を及ぼしうる特定の特性のみに配慮義務が課されるという逆転現象が生じている。国家が管理可能なラベルのみを特別扱いする構造は、そこから漏れた無数の不可抗力を抱える側から見れば、公平とは程遠い恣意的な線引きに他ならない。

責任の保存則と免責がもたらす逆インセンティブ

実務においてミスや損害が発生した際、いかなる文脈や正当化があろうと生じた実害は消滅しない。制度論はしばしば「当事者の免責(理由があるから本人は悪くない)」を主張するが、これは責任を消去しているのではなく、単に責任の所在をスルーパスしているだけである。

損害の発生 ──> [本人の免責] ──> [採用者・現場管理者・同僚への責任転嫁]

本人が責められない立場になるほど、発生した損失や追加のマネジメント負荷は、そのリスクを承知で採用・アサインを決定した人事や現場の同僚へ集中する。この構造があるからこそ、採用側には「後から責任を追及されるリスクを避けるため、理由になり得る要素を入り口で徹底的に排除する」という極めて強い防衛的インセンティブが働く。当事者を無条件に免責する仕組みを強めるほど、皮肉にも採用現場における水面下のスクリーニングは巧妙化・不可視化していく。

「物理の制約」を「道徳の問題」にすり替える弊害

業務上の制約や追加コストの発生は、捕食者から逃げる速度のような物理や機能の限界であるにもかかわらず、現代の議論はこれを「差別意識や不寛容」という道徳や善悪の構図へと容易にすり替えてしまう。

実務上のネガティブな影響を語ること自体がタブー視されるため、現場のキャパシティの限界を訴える正当な声すら封殺される。現実的なトレードオフの調整や、発生するコストに対する補償のリソース設計が議論できないままでは、現場は「表面的には建前に従い、密室の選考で静かに落とす」という自衛手段を取るしかなくなる。事実としての差異をフラットに認められない環境こそが、かえって根深い排除を温存させる土壌となっている。

自発的配慮と強制的配慮の断絶

本来、組織にとって真に合理的な配慮とは、法に強制されるまでもなく自発的になされるものである。替えの利かない高い成果を出す専門家に対して特別な環境を用意するのは、支払うコストを上回るリターンが存在するからに他ならない。

一方、法的拘束力によって外側から義務付けられる配慮は、組織の実態から見れば Cost > Return であり、本質的に不合理であるからこそ強制を必要としている。人間関係においても同様に、配慮とは利害や感情的な結びつきの中で自然に発生する関係性の副産物であり、権利として一方的に要求された瞬間にその関係は破綻する。

同じではない現実を、同じであるかのように扱わせることで生じる摩擦と歪みを受け止める理由は、誰にも存在しない。配慮に伴うコストと責任の帰結先を定義しないまま道徳的なお題目を押し通そうとする試みは、現場の防衛本能を刺激し、最も冷淡な形での距離と排除を生み出し続ける。

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