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Windows 11のために新しいPCを買うことはサステナブルではない

いまやどの企業も「環境にやさしい」と唱えている。
パッケージは再生紙、筐体はリサイクルアルミ、製造過程ではカーボンオフセット。
しかし、その一方でユーザーには「旧製品はサポート終了」「最新モデルへ移行を」と迫る。
この二枚舌が、現代のテクノロジー資本主義を象徴している。

環境を守るふりをして、実際には消費を維持するための環境語を使っているだけだ。
古いPCを修理して使うより、新品を買うほうが「サステナブル」と言われる始末。
だが現実の数字を見れば、製造段階で排出されるCO₂は運用中の比ではない。
リチウム精錬、輸送、廃棄――一台のノートPCが生まれて死ぬまでに撒き散らす二酸化炭素は、
使い続ける十年分の電力消費を軽く超える。

つまり、「更新」こそが最大の環境負荷なのだ。

十年前のPCでも、メールもウェブもオフィスもこなせる。
CPUはSandy Bridgeでも、SSDと軽量Linuxを入れれば十分だ。
寿命を決めているのはハードウェアではなく、企業の都合である。
OSのサポートを切り、APIを変え、ソフトを非対応にして、
「危険だから買い替えましょう」と言う。
だが、危険なのは脆弱なプログラムではなく、脆弱な倫理のほうだ。

古い機械を動かし続ける行為は、単なる節約でも懐古でもない。
それは文明に対する一種の抵抗であり、
「使い捨てることが前提」という価値観そのものへの異議申し立てである。
修理し、調整し、限界まで動かすという行為の中には、
“所有”という言葉の本当の意味が息づいている。

「持続可能な社会」とは誰のためのものか。
企業にとっての“持続”とは、利益構造の持続である。
ユーザーにとっての“持続”とは、生活の継続である。
この二つは似て非なる。
前者は買い替えを必要とし、後者は修理を必要とする。
つまり、企業のサステナビリティは人間のサステナビリティと利害が真逆なのだ。

それでも企業は、「新しい機種のほうが省電力」「リサイクル素材使用」などと謳う。
だが新しい機械を作るために、また採掘と精錬が行われる。
「地球に優しい新品」とは、笑止千万。
その優しさは、地球の別の場所にある誰かの労働と環境を犠牲にした上に成り立っている。

古いPCを直しながら使う者は、
もはや“時代遅れの人”ではない。
それは時代の良心だ。
限られた資源を無限に消費する経済に抗い、
「まだ使える」という当たり前の感覚を取り戻す行為は、
消費社会への最も根源的な反逆である。

Linuxの有志たちは、その最前線にいる。
ドライバを書き換え、旧チップセットを再定義し、
企業が切り捨てたハードを再び蘇らせる。
それはエンジニアリングの遊びではない。
文明を修理する作業である。

真のサステナビリティとは、新しいものを作ることではない。
壊れてもなお動かし続ける技術と意志のことだ。
企業が示す「エコ」は見せかけの循環、
だが個人が手を動かして古い機械を再生させる行為は、
真の循環――つまり倫理的な持続を生んでいる。

我々が問うべきはこうだ。
「この機械はまだ使えるか?」ではなく、
「この文明はまだ正気か?」である。

古いPCのファンが静かに回る音の中に、
“進歩”が忘れた誠実さが、いまも息づいている。

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