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パンを食べるのに許可がいる――ソフトウェアが失った「自由」

2025年、GoogleはAndroidアプリ開発者に対して「開発者認証制度」を導入すると発表した。
表向きはセキュリティ強化策であり、マルウェア対策を目的とする。だが実際の仕組みを見れば、これはサイドローディング文化の終焉を告げる宣告である。

F-Droidのような自由なアプリ配布サイトは、開発者登録を強制されればその存在理由を失う。なぜなら、F-Droidは「誰でもオープンソースのアプリを自分でビルドして使える」ことを前提にしているからだ。Googleがパッケージ名と署名鍵を登録制にしてしまえば、他人がビルドしたアプリは端末でブロックされる。つまり、自分の端末にどんなソフトを入れるかを決める権利が、Googleの審査と許可の下に置かれるのだ。

「安全のため」と称してインストールを規制する――これは一見もっともらしく聞こえる。しかし本質的には、パンを食べるのに許可証が要るのと同じ構造である。泥棒がパンを盗むのを防ぐために、すべての人間に「パン食許可証」を義務づけるような話だ。

「Play以外から無警戒にアプリをインストールするのは危険」――多くのメディアがそう書く。
だが、では「Playから無警戒にインストールするのは安全」なのか?
そんな科学的根拠はどこにもない。実際、Playストア経由でもマルウェア混入事件は繰り返されてきた。

Googleが目指しているのは、セキュリティよりも支配構造の単純化だ。
アプリ配布経路を統一すれば、手数料の徴収も容易になり、開発者を管理しやすくなる。個人開発者は登録の負担で淘汰され、残るのは大企業のマス向けアプリだけ。つまり「安全」と「収益」が同義語になりつつある。

そしてユーザーは「許可された安全」の中でのみ行動できるようになる。
端末のボタンがグレーアウトして押せない。それだけで、自由は静かに封じられる。
これは検閲でも命令でもない。だが結果は同じだ――選択の排除である。

「パンを食べるのにトランプの許可が要る」と言われれば、誰もが独裁を感じ取るだろう。
しかし「アプリをインストールするのにGoogleの許可が要る」と言われても、多くの人は安心する。
違いはただ一つ、それが見えないからだ。

ソフトウェアは形を持たない。
だから制限もまた見えない。検問も配給券も存在しない。ただ「セキュリティ上の理由でブロックされました」と表示されるだけ。
これが現代のデジタル検閲であり、「見えない国家権力」を企業が代行している構図である。
しかもその権力は法を超え、国境を越え、世界中の端末に一斉に適用される。

自由を守るための安全策が、自由そのものを食い尽くす。
それを異常と感じ取れる人間は、もう少数派になりつつある。

AndroidもiOSも、表面上は自由をうたいながら、実態は徹底した中央集権である。
Linuxカーネルの上に築かれたAndroidは、自由を土台にして非自由を構築した最たる例だ。
同じ構図はデスクトップ世界にもある。
WaylandによるXの置き換え、Red Hatの支配、Canonicalの商業化――どれも安全性と整合性を名目に、ユーザーの裁量権を削り取っていった。

プラットフォームを制した者が自由の仕様書を書き換える。
いまや自由ソフトウェアの理想は、企業の経営指標の中に吸収され、都合のいい形で“最適化”されてしまった。
自由はもう「設定画面のオプション」になり果てた。
それをオンにする人間は少数で、やがてはボタンごと消えるかもしれない。

「自分の選んだソフトを自分の端末に入れるのに、Googleの許可がいる」。
この一文をおかしいと思えないなら、食事のトランプ許可制を笑う資格はない。

自由とは、危険とともにある。
その危険を避けたいがために、選択の自由ごと差し出した瞬間――我々はもう自由ではない。

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