無限の選択肢と、欠落する「欲しいもの」
いま、あらゆるコンテンツが指先一つで手に入る。YouTube、Netflix、Spotify、どれを開いても、無数の動画や音楽が流れ込んでくる。
だが不思議なことに、この豊穣な世界で人はしばしば「欲しいものがない」と感じる。
それは単なる贅沢でも気まぐれでもない。むしろ、供給が極まったがゆえの欠乏である。
アルゴリズムは膨大なデータを集め、「お前が好きなもの」を予測して並べてくる。だがその「好き」は過去の残響にすぎず、現在の欲求には追いつかない。欲望とは瞬間ごとに変化する流体のようなもので、データベースに封じ込めることなどできない。
結果として我々は、過去の自分の影に囲まれながら「いまの自分に必要なもの」だけを見失う。
アルゴリズムの構造的愚鈍さ
この現象は、個人の問題ではない。アルゴリズムという構造の限界である。
奴らは平均値を最適化するよう設計されている。クリック率、再生時間、離脱率。
それらの指標が意味するのは、「多くの人がそこそこ楽しめるもの」であって、「ある一人が深く刺さるもの」ではない。
YouTubeのホーム画面を見ればわかる。そこに並ぶのは昨日とほぼ同じ顔ぶれだ。少し角度を変えただけの同質の映像。人間が抱く「飽き」という概念を理解できない機械は、似た刺激を繰り返し与え、退屈を“安心”と誤認させる。
この麻痺が続けば、人は知らぬ間に自分の欲望を放棄する。
つまり、アルゴリズムの支配とは暴力ではなく、退屈の自動生成によって完成する。
「永遠の食洗機」という寓話
あるとき中古の食洗機をヤフオクで買った男がいた。
彼は購入後も延々と「おすすめの食洗機」通知を受け続ける羽目になる。
たった一度の購買を、アルゴリズムは「永遠の食洗機愛好家」と解釈したのだ。
これが滑稽な話に聞こえるかもしれない。だが、実は我々全員が同じ目に遭っている。
YouTubeは、数秒見ただけのジャンルを「お前の好み」と決めつけ、以後何週間もそれを勧めてくる。Amazonは、買ったばかりの冷蔵庫に「もう一台どうだ」と迫ってくる。
アルゴリズムには「目的の達成」や「飽き」の概念がない。
欲望の完結という人間的な文脈を理解できないから、一度興味を示した対象を永久に反復する。
「永遠の食洗機」は、現代アルゴリズム文明の縮図なのである。
知能の果てにある退屈
世界最高の頭脳が作ったシステムの帰結が「食洗機の無限リコメンド」だというのは、あまりに皮肉だ。
AIの“支配”とは、知性による制御ではなく、無自覚な機械的惰性の蔓延だ。
人間の欲望を正確に理解することはないまま、ただ「確率的に正しそうなもの」を押し続ける。
それでも我々は、スマートフォンを開く。ホーム画面を眺め、退屈と知りながら指を滑らせる。
それはもはや娯楽ではない。退屈を選ぶ習慣であり、機械に予測された自分を自ら演じる儀式だ。
2025年の結論は、恐ろしく単純だ。
AIは神にはならなかった。ただ、「同じ食洗機を見せ続ける神官」として世界を維持している。
人間はその祭壇の前で、退屈という供物を捧げ続ける。
この文章の要点は一つだ。
アルゴリズムの愚かさとは、人間の欲望を終わりなきループに閉じ込める知性の不在である。