画像生成や文章生成をはじめとするAI技術の急速な普及は、皮肉にも表現における「技術」と「本質」の主従関係を白日の下に晒すこととなった。これまで創作の価値として持て囃されてきた美麗な画力や流麗な文章力は、出力のハードルが極限まで下がったことで急速にコモディティ化し、単なる外装にすぎなかったことが明らかになりつつある。技術のインフレの果てに見えてきたのは、官能を真に成立させる核がシチュエーションと文脈の想起にあるという事実と、それを構造的に摩耗させ続ける市場経済の宿命である。
どれほど緻密で美麗なイラストであっても、一目見て数秒で消費され、記憶から抜け落ちてしまう現象が頻発している。これは視覚的な完成度が高すぎるあまり、受け手が客観的な鑑賞者モードに引き戻され、自身の妄想を投影する余白を奪われてしまうためである。過度に細部が作り込まれた表現はノイズを生み、かえって没入感を阻害する。むしろ、ある種の適度な雑さや記号的な粗さがある表現のほうが、受け手自身の欲望で隙間を埋める脳内補完を強くドライブさせる。
画力や文章力は、本来伝えたい状況の解像度を調整するための伝達手段にすぎない。どのような力関係や背徳感、心理的機微のもとでその状況が成立しているのかという関係性の設計こそが本質であり、それを欠いた表層的なクオリティは空虚な記号の羅列に終わる。自らの欲望の解像度を高めようとしたとき、真に難度の高い領域は技術的な出力ではなく、固有の文脈をいかに想起させるかという物語性の構築であったことが浮き彫りになっている。
創作市場において資本を最も効率的に回収するのは、誰の心にも深くは刺さらないが誰もが拒絶せず消費できる70点の最大公約数である。衝動的かつ刹那的に消費される市場においては、極端に先鋭化したニッチ表現よりも、流行の絵柄やテンプレ化された無難な記号のほうが広く浅く資金を集めやすい。熱狂的な偏愛ではなく、大して好きでもないものに投じられる雑な金が市場の圧倒的なボリューム層を形成し、結果としてプラットフォームや制作インフラを支えるという逆説が存在する。
表現者が生活のために市場へ適応しようとすれば、自身の偏愛を売れ筋のフォーマットに合わせて希釈するか、需要のある記号の生産者として割り切ることを余儀なくされる。真に個人的な欲望に忠実であろうとするほど対象となる受け手は激減し、経済的な合理性を失っていく。作家の生存戦略と受け手の安易な消費行動が相互に作用し合うことで、市場全体の表現は必然的に均質化へと向かう。
かつてフルプライスと呼ばれた大規模開発の商業作品が衰退した背景には、万人受けを狙うあまり個性を失った凡庸な記号の氾濫があった。そのオルタナティブとして機能していたはずのインディーズ市場もまた、現在ではかつての大規模開発と同じ道を辿り始めている。ダウンロード販売プラットフォームの成熟に伴い、ranking の推移や人気 tag のデータが可視化された結果、アルゴリズム的に売れ筋の属性を組み合わせただけの工業製品的な作品が市場を覆い尽くすようになった。
さらに、表現のインフレに伴って制作規模が肥大化し、開発コストが上昇したことで失敗が許されない構造が再生産されている。無難な商業主義へのカウンターとして生まれた領域が、商業的規模を獲得した瞬間に自らもまた凡庸な記号消費へと回収されていくのは、あらゆるサブカルチャーが繰り返してきた歴史的必然である。市場が均質化と制度化を繰り返す限り、純度の高い個人的なフェティシズムは、常に新たな逃避先を求めて漂流し続けることになる。