出来立ての自炊がもたらす理屈抜きの満足感
最近少しずつ自炊を進めているが、結局のところ安い材料で作った焼き立て・炊きたて・作りたての料理のほうが、高価な惣菜よりも美味しいことが多いと気づいた。
万人に向けて綺麗に整えられた市販品とは異なり、自炊には圧倒的な自由がある。好きな具材を限界までたっぷりと入れたり、卵や好みの調味料でアクセントをつけたりと、自分自身の好みに全振りしたアレンジが可能だ。スーパーに行ってその日安かった食材を適当に買い、そこからできることを考えて食卓を組み立てる。その柔軟なプロセス自体が、日々の高い満足度へと繋がっている。
「自炊は時間の無駄」という不自然な前提
十数年もの間、毎日のように残業が続く過酷な労働環境に身を置いていた時期がある。当時は自炊をする余力などなく、外食や出来合いの弁当を買う生活を余儀なくされていた。たしかにお金を出せば手に入るし、それは便利なことだと信じ込んでいた。しかし今になって思えば、安い金額で高い満足度を得られ、ついでに生活力も向上する自炊を放棄し、わざわざ高いお金を払ってどこか虚ろな食事を摂り続けていたように感じる。
なぜ当時の自分は、自炊など時間の無駄だと考えていたのだろうか。それは、時代の趨勢の中でそのように思い込まされていたからに他ならない。現代の社会は、人々に自炊などしてほしくないのだ。そんな時間があるなら労働をして稼ぎ、そのお金で高い食事を買えというメッセージを常に発信している。人間のあらゆる行動をできるだけ金銭のやり取りに置き換え、それこそが社会的に正しいことだと思わせるような強い圧力が存在している。
消費社会に実装された巧妙なシステム
第一線から退き、自身の中にある前提が書き換わったことで、論理的な結論も大きく変わった。過去に培った論理的思考力を用いて、なぜ自分があのような不自然な前提を内面化してしまったのかを逆演算していくと、ある事実に突き当たる。その前提は、消費社会の最適化にとってあまりにも都合が良すぎるのだ。それが自身の純粋な自由意志であったとは到底思えない。
この空気のような圧力の根幹にあるのは、人間の生活空間における徹底的な市場化である。自炊のようなお金が介在しない個人の営みは、経済を成長させない。そのため、社会は生活者が自給自足している領域を解体し、外部のサービスを買う消費行動へと置き換えようとする。これを個人の無意識に刷り込むため、社会には以下のような仕組みが巧妙に実装されている。
- 疲労の常態化による環境構築労働者の時間を限界まで買い上げ、精神的・肉体的な疲労を常態化させる。生活を営む余力を物理的に奪うことで、外部サービスに依存せざるを得ない環境を構築する。
- タイムパフォーマンスの道徳化時間を節約することこそが優秀であるという価値観を広める。家事や自炊の時間を短縮して自己投資に充てるべきだと説き、自炊をリターンの少ない非効率な作業として社会的に格下げする。
- 行動を誘導する都市インフラ至る所に配置されたコンビニエンスストアやデリバリー網、そして自炊を想定していない極端に狭いキッチンを持つ単身向け住宅。これらはすべて、お金を払って解決するほうが摩擦が少なくなるように設計された空間的な誘導である。
生活の主導権を取り戻す
社会が良いとする価値観から降りて初めて、人間としておかしくないかという根源的な疑問が生じた。
自炊を通じて自分の手で食事を整えるという行為は、単なる節約術ではない。それは、労働と消費の無限ループを回し続ける社会の都合から距離を置き、自身の生活の主導権を取り戻すプロセスである。社会システムに用意された都合の良い前提を疑い、自分自身の意思に基づく前提を再構築すること。安かった食材から今日の食事を組み立てるそのささやかな営みの中にこそ、金銭では決して計ることのできない本質的な豊かさが宿っている。