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地政学
「国家」とは誰が決めるのか:チェチェンと国際承認の現実
国家としての要件とチェチェンの実態 国家とは何か――この問いに明確な答えを与えるのは難しい。しかし国際関係においては、一定の基準が存在する。1933年のモンテビデオ条約では、国家の要件として①恒常的な住民、②明確な領域、③政府、④他国との関係を結ぶ能力、の4点が示されている。 チェチェン共和国は、これらの一部を形式上は満たしてい... -
地政学
どうしても譲れない土地:ロシアにとってのチェチェンの地政学的意義
地理的要衝としてのチェチェン チェチェン共和国がロシアにとって重要である理由は、単なる歴史的経緯や政治的象徴にとどまらない。むしろ、その地理的な位置こそが、ロシアがこの地を決して手放そうとしない最大の理由のひとつである。 チェチェンは、カフカス山脈の北側、黒海とカスピ海を結ぶ回廊の中ほどに位置し、ロシア南部と南カフカ... -
地政学
名を保ち続ける意味:共和国を名乗ることの政治的価値
国家の形が残ることの意義 チェチェン共和国が「共和国」という名称を維持し続けていることには、象徴的な意味が込められている。国旗、首長、独自の憲法といった形式的要素は、国際的には独立国家と同じような外見を持つ。だがその実態はロシア連邦内の自治共和国という位置づけに過ぎず、主権国家とは明確に区別される。 それでもなお「共... -
地政学
忠誠と自治のはざまで:チェチェン政権の選択とロシアとの関係
カディロフ体制の成立:紛争の果ての統治モデル 第二次チェチェン紛争を経て、ロシアはチェチェンの再掌握に成功したが、同時に安定的な統治モデルを模索する必要に迫られた。そこで登場したのが、現在のチェチェン首長であるラムザン・カディロフとその父アフマド・カディロフである。 アフマド・カディロフは元々、独立派に属していたが、... -
地政学
チェチェンは独立後なぜ持ちこたえられなかったのか
第一次チェチェン紛争:勝利のように見えた瞬間 1991年、ソビエト連邦の崩壊とともに、チェチェンは独立を宣言した。指導者ジョハル・ドゥダエフのもとで独立国家としての構築を試み、ロシアの干渉を排除しようとした。ロシアは当初、内政の混乱と経済的危機もあり、明確な対応を取れずにいたが、1994年になって軍事介入を開始する。 これが... -
地政学
チェチェン共和国における「共和国という形式」:国家機能の限界と現実
歴史的背景に見る「共和国」の意味 ロシア連邦に属するチェチェン共和国は、その名に「共和国」を冠している。しかし、その形式が指し示す実態は、いわゆる主権国家としての「共和国」とは異なる構造を持つ。 ロシアは多民族・多地域からなる連邦国家であり、連邦構成体の中には「州」や「地方」のほか、「共和国」という枠組みが存在する。... -
政治体制
民主主義は本当に自由なのか?──競争相手を失った体制の自己硬直
21世紀初頭、民主主義は「歴史の勝者」として世界の政治舞台を制したかのように見えた。冷戦が終結し、ソビエト連邦が崩壊した1991年以降、リベラル・デモクラシーは唯一の正統な体制とみなされ、西側諸国はその価値を世界中に広めることに躍起になった。しかしここで、一つの仮説を提示したい──民主主義が本当に民主主義であり続けるには、... -
政治体制
スターリン批判が示した共産主義の終わりの始まり
1956年、フルシチョフが行ったスターリン批判は、共産主義体制内部から発せられた最初の「異議申し立て」であり、それはやがて体制全体を揺るがす転換点となった。彼の演説は、形式上は一指導者の過ちを認めるものでありながら、その実、共産主義体制が内包する矛盾と限界をあぶり出した告白に等しかった。 最終回となる本稿では、スターリン... -
政治体制
冷戦と共産体制の矛盾が露呈する時代
スターリン批判を契機にソビエト連邦および共産圏は、表面上は変革の兆しを見せつつも、内部ではますます深刻な矛盾を抱えるようになった。1956年以降、体制の権威はかつてのような絶対性を失い、それを糊塗するためのイデオロギーやプロパガンダも徐々に説得力を失っていく。こうして、冷戦の構造そのものにも揺らぎが生まれる。 本稿では、... -
政治体制
スターリン批判の波紋と東欧の動乱
1956年、フルシチョフによって行われたスターリン批判は、単なる党内の反省にとどまらず、ソ連国内および東欧諸国、さらには世界の共産主義運動全体に深刻な波紋を投げかけた。それは、封じ込められていた不満と疑念に火をつけ、圧政に耐えていた国々に「声を上げる正当性」を与える転機となった。 本稿では、スターリン批判が引き起こした具...